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第四章 ヒボコはいつ頃の人なのか

第四章 ヒボコはいつ頃の人なのか

日槍の日本渡来時期?

天日槍はが渡来したのは、いったいいつ頃なのであろうか? まず『記』(『古事記』)から見ていこう。『記』では、人皇15代応神天皇の段に、 「又昔(むかし)新羅国主の子、名は天之日矛(ヒボコ)と謂う有り。是の人参る。渡来(ワタ)りけり…云々」(その昔、新羅国王の子がいて、名を天之日矛と云う。渡来してきた。」と伝えるが、来朝期を明らかにしていない。

これに対し、『日本書紀垂仁天皇の3年の条には、 三年春三月、新羅王子、天日槍來歸焉、將來物、羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿々赤石玉一箇・出石小刀一口・出石桙一枝・日鏡一面・熊神籬一具、幷七物、則藏于但馬國、常爲神物也。

垂仁天皇3年春3月、新羅の王子、天日槍が渡来した。その際に次の7物、 羽太の玉(はふとのたま) 1箇 足高の玉(あしたかのたま) 1箇 鵜鹿鹿の赤石の玉(うかかのあかしのたま) 1箇 出石の小刀(いづしのかたな) 1口 出石の桙(いづしのほこ) 1枝 日鏡(ひのかがみ) 1面 熊の神籬(くまのひもろき) 1具 を持ってきて、これらを但馬国に納め永く神宝としたという。

『播磨風土記』には、神代の事としている。前に垂仁天皇の朝(在任期)に記される田道間守(たじまもり)は、天之日矛の玄孫であるとされているから、天之日矛垂仁天皇朝よりもはるかに古い時代の人と見なければならぬ。要するに新羅と我が国とが、古くから交通していた事を物語る伝説中の人物である」と、すこぶる要領よく解釈している。 けれども日槍は、けっして伝説上の人物ではあるが作り事だと断定できない。

『日本古代史』(久米邦武著)は、記紀の伝承を比較検討し、玄孫・田道間守が景行朝の人であることから年代的に日槍を考え、孝元期(紀元前214年2月21日- 紀元前158年10月14日)に渡来したとと考定する。 そして久米は、種々考証の結果、「孝元帝の時は、倭国大乱の最中なるに、天日槍の但馬及び伊都の主となりたるは、伊都県は儺県に近接し、伊都津は女王卑弥呼の時に漢韓より亭館を設けて、交通の要津となした れば、その接近の地を占拠したるは、伊都県に去り難き所縁のありての帰化なるべし」と論述した。

『ホツマ』では「昔、日槍が土産物。この八種、但馬に蔵む。瑞籬(ミズカキ)の三十九、日槍は播磨より到る宍粟邑」と伝える。瑞籬の三十九とは、崇神39年(BC68)であるから、孝元朝(BC214-158)に対し約100年後のことだ。 ところが、播磨風土記は次のごとく、日槍の渡来期を葦原志挙乎命(あしはらしこをのみこと)の時代まで、著しく引き上げている。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏は、 『日本書紀』の編年は半年を1年とする「二中暦」だといわれている。しかも天皇の系譜をオーバーにするためにかなり遡ってつけられているので、垂仁天皇は、実際は紀元332年(推定)に即位したのだろうという。垂仁天皇3年(紀元前27年)3月、新羅王子の天日槍(あめのひほこ・以下ヒボコ)が神宝を奉じて来朝」と記しているが、推定では垂仁天皇99年(紀元361年)に崩御されたとしている。

垂仁天皇の記述については日本海周辺に関わる記述が多くなり、任那人が来訪して垂仁天皇に仕えたという逸話が残っている。海運の要路として、朝鮮半島日本海側(出雲・但馬・丹後・越(こし)国・若狭(福井県)の重要性が増したためと考えられている。

三世紀後半から四世紀の朝鮮半島北部は高句麗、西部は百済、東部(慶尚道)に紀元356年、新羅国が興り、935年まで存在していた。ただ、377年、前秦への朝貢の際に、新羅という国号を初めて使用したが、402年までは鶏林の国号が使用された。

朝鮮最古の正史『三国史記』の第一巻(新羅本紀)に注目するべき記述がある。

『日韓がタブーにする半島の歴史』室谷克美氏

日本海側の地から来た賢者

『三国史記』の第一巻(新羅本紀)に、列島から流れてきた賢者が、二代主の長女を娶り、義理の兄弟に当たる三代目の王の死後、四代目の王に即く話が載っている。 その賢者の姓は「昔」(ソク)、名は「脱解(タレ)」だ。 「新羅本紀」は脱解王初年(57年)の条で述べている。

脱解本多婆那国所生也。其国在倭国北千里。 (脱解はそもそも多婆那国の生まれだ。その国は倭国の東北一千里にある。) その生誕逸話も載せている。そこには、新羅の初代王である朴赫居世パクヒョッコセの生誕説話の倍以上の文字数が費やされている。木版の時代、一つの事柄の記述に充てられる文字数は、その事柄に対する編者、著者の重要性認識度に直結していると思う。

(中略)

『三国史記』で用いられている「里」は、随里(一里=約450㍍)か、朝鮮里(一里=約400㍍)か、あるいは両者を混同して使っているとも考えられる。概ね、一里=400㍍と見てよい。 漢字文化圏の史書に「○○国から△△里」とある場合、その起点は○○国の首都だ。 当時の倭国の首都が博多湾周辺にあったのか、近畿地方にあったのか-日本史研究者の見解は真っ二つに割れているが、ここではどちらでも構わない。 鳥取県東部から但馬地方あたりか、あるいは新潟県あたりになる。

新羅本紀」の記述からは、多婆那国が「ここにあった」とは特定できない。しかし、日本列島の日本海側、因幡地方から新潟県あたりまでの海沿いの地にあったことは確実に読み取れるのだ。 (中略) 脱解は一応、紀元一世紀の人物として記されている。 (中略) 『三国史記』は、脱解王の下で大輔に就く人物について、「倭人」だったと明記している。倭人新羅の支配体制の重要なポストに就いたことを、何らタブー視していないのだ。 それなのに、脱解に関しては、その生国を「倭国の東北一千里」と紹介している。これは、多婆那国が倭国の支配圏外にあったからだろう。

(中略)

『三国遣事』には、もう一カ所、脱解について触れた部分がある。巻二(紀異篇の続)の最後に収められている『駕洛国記カナックッキ(抄録)』の中にも脱解が登場する。「駕洛」は「伽耶」「加羅」と同義とされる。広義の「任那」だ。 『駕洛国記』とは、高麗十一代王の文宗の時に、金官(現在の金海地域)の首長として赴任した文人が、滅亡した駕洛諸国に関して、地元の伝承や古史書を集めてまとめた作とされる。 金官伽耶国の初代王である金首露の出生から、その国が新羅に投降するまでの歴史を伝えている。 (中略)

新羅本紀」『三国遣事』『駕洛国記』の脱解に関する記事を基に大胆に想像するとこういうことになる。

日本列島の日本海側の多婆那国で、何らかの事情があり、若君を追放することになった。多婆那国には「海人の国」らしい追放の仕方があった。若君は側近、奴婢、それに相応の財宝とともに船に乗せられ、「どこにでも行ってしまえ」と追放されたのだ。

しかし、列島の北方は農耕に不向きだ。といって対立している倭国に行くわけにもいかない。だから朝鮮半島を目指した。最初に着いた金官国では相手にされなかった。 次に着いた新羅の海岸では、王のために魚や貝を獲る役を努めている倭種の老海女にコネを付けられた。当初は海辺で網元のような仕事をしていたが、やがて市場のある慶州に移り住んだ。ここで老海女のコネを利用して朴王室に近づき、多婆那国から持ち込んだ財宝で新羅の廷臣を包摂して、「賢者」として権力の座に就くと、新羅の初代王にあやかって「自分も卵から生まれた」と称した。

天日槍はおそらく伝説上の人物、または、一人をさすのではなく出石に定住した鉄の国・渡来系の人々ではないかという意見もある。

いずれにしろ時代考証から、伽耶(または任那)の人々でないかと思われるのだ。第十一代垂仁天皇は、四世紀初めで、実在性の高い最初の天皇であるとされており、この頃から「記紀」は、日本海側の但馬・丹後・若狭・越前周辺に関わるものが多くなる。その時代は、朝鮮半島日本海側の重要性が増したためだと考えられるのだ。

国司文書 但馬故事記』の天日槍

記紀』はくわしく記していないが、『国司文書 但馬故事記(第五巻・出石郡故事記)』はこれをくわしく記している。天日槍来朝の叙述や、その子孫の記録は、他書を抜いて最も詳しく、まことに貴重な資料である。

第六代孝安天皇の五十三年(長浜浩明氏の算定では在位期間:西暦60-110年)、 新羅(しらぎ)の王子・天日槍命(あめのひぼこのみこと)が帰化した。 天日槍命は、鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと=神武天皇の父)の御子・稲飯命(いないのみこと)の五世孫である。 鵜草葺不合命は、海神・豊玉命の娘・玉依姫命(たまよりひめ)を娶り、五瀬命(いつせのみこと)・稲飯命・豊御食沼命(とよみけのひめ)・狭野命(さののみこと)を生む。 父の鵜草葺不合命が崩御された後、世嗣よつぎの狭野命は、兄たちとともに話し合い、皇の都を中州なかつくに*1に遷りたいと願い、船師*2を率い、浪速津なにはつ(大阪湾)に至り、山跡川(大和川)をさかのぼり、河内の国・草香津(くさかづ=東大阪市日下)に泊まった。 まさに山跡(大和)に入ろうとした時、山跡国登見(やまとのくにのとみ=奈良市)の酋長、長髄彦ながすねひこは、天津神の子、饒速日命にぎはやひのみことを奉じて兵を起こし、皇軍を穴舎衛坂(くさかえざか・東大阪市日下)に逆(迎)え討った。 皇軍に利はなかった。狭野命(さののみこと)の兄、五瀬命(いつせのみこと)に流れ矢があたり亡くなってしまった。狭野命は、兄たちとともに、退いて海路をとって、まさに紀の国(和歌山県)に出ようとしたとき、暴風に逢う。 稲飯命と豊御食沼命は、小船に乗りながら漂流し、稲飯命は、新羅*1に上り、国王となり、その国に止とどまった。豊御食沼命は海に身を投げて亡くなってしまった。 世嗣(よつぎ)の狭野命は、ついに熊野に上陸し、五瀬命を熊野碕に葬り、進んで他の諸賊を誅し、ついで長髄彦命を斬り、いでて降りる。中州はしばらく平らぐ。 世嗣狭野命は、辛酉の年、春正月元日、大和橿原宮に即位し、天下を治め給う。これを神武天皇と称しまつる。 (中略) 天日槍は、八種の神宝を携え、御船に乗り、秋津州(あきつしま・本州の古名)に来ました。筑紫(九州北部)より穴門(下関の古名)の瀬戸を過ぎ、針間国(播磨)に至り、宍粟(しさわ)邑(宍粟郡・今の宍粟市一宮町)に泊まる。人々は、この事を孝安天皇にお知らせした。 天皇は、すぐに三輪君の祖・大伴主命(おおともぬしのみこと)と倭直(やまとのあたえ)の祖・長尾市命(ながおいちのみこと)を針間国に遣わし、来日した理由を問うた。 天日槍は、謹んで二人に向かって話した。 「僕(やつかれ)は、新羅王の子。我が祖は、秋津州(日本の本州)の王子・稲飯命(いないのみこと)。そして僕に至り五世に及ぶ。 ただいま、秋津州(本州)に帰りたいと欲し、わが国(新羅)を弟の知古に譲り、この国に来たる。願わくば、一畝(ひとつのうね)の田を賜り、御国の民となりたいのです。」と。 二人は帰って天皇に奏した。 天皇は勅して、針間国宍粟邑(御形神社)と淡路国出浅邑(兵庫県洲本市由良・出石神社)とを賜った。 天日槍は再び奏して請うた。 「もし、天皇の恩をたまわれれば、家来らが諸国を視察し、者たちの意にかなうところを選ばせてください。」と。 天皇はそれを許可しました。天日槍は、菟道川(宇治川)を遡り、北に入り、しばらく近つ淡海(近江)国吾名(あな)邑に留まりました。さらに道を変えて、若狭を経て、西の多遅摩国に入り、出島(いずしま)に止まり、住処(居所)を定めました。 ここに近つ淡海おうみ国(近江国)の鏡谷陶人(かがみだにのすえと)は、天日槍の従者で、よく新羅風の陶器を作る。 さて天皇は、ついに天日槍命に多遅摩を賜う。(但馬を与えた) 61年春2月、天日槍を以って、(初代)多遅摩国造と為す。 天日槍命は、御出石県主・天太耳命の娘・麻多鳥命を娶り、天諸杉命を生む。 (中略) 第7代孝霊天皇38年夏6月、天日槍命の子・天諸杉命(あめのもろすくのみこと)を以って、多遅摩国造と為す。 40年秋9月、天諸杉命は天日槍命を出石丘に斎き祀り、且つハ種神宝を納む。 (中略) 第11代垂仁天皇88年秋7月朔さく(1日)群臣に勅して曰く、 「朕(やつがれ)聞く。昔、新羅王子・天日槍が初めて帰国した時、携えた宝物、いま多遅麻国出石社にあり」と。 朕これを見たい。よろしくこれを奉れ」と。 (私が聞いたのには、むかし、新羅の皇子・あめのひぼこが初めて帰国した時に、携えてきた宝物が、今は出石神社にある」という。わたしはそれを見てみたい。よろしくそれを持って参れ」と。)

脱解王=天日槍

(*1 稲飯命の頃には、半島南部は韓といって、空白地帯に縄文人弥生人倭人が住んでいた。三韓馬韓弁韓辰韓)以前で当然国として弁韓に伽倻・任那など12のクニがあった。新羅国も12のクニがあったとされており、弁韓辰韓は入り乱れており、伽倻に近いところに新羅というまだ小さなクニがあったかも知れない。やがて北部の中国の朝貢国高句麗がその後押しで南下し。漢族・ワイ族など朝鮮系の入植が進み、倭人の子孫との間に婚姻も進む。日本列島は朝鮮渡来人から発展したのではなく、まったく逆であり、半島が倭人が王となってから発展したので、倭に朝貢していた。その半島に渡った子孫の中に帰国して人もいただろう。)

また、『新撰姓氏録』右京皇別下新良貴(しらき)条は、「是出於新良国 即為国主 稲飯命出於新羅国王者組合」とあり、

稲飯命新羅王の祖であるとする異説を載せている。

韓国最古の正史『三国史記』は、高麗王朝の1145年完成で、『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)に遅れること約400年。それ以前にも三国における史書として高句麗百済新羅国史が編纂されたという記録があるが、いずれも現存していないので、『三国史記』に頼らざるをえない。どうも記紀を基に編纂したのではないかといわれるが、「脱解はそもそも多婆那国の生まれだ。その国は倭国の東北一千里にある。」と倭人新羅四代王になったと記しているから、何でも韓国起源という現在よりはまだ公平である。

ともかく、新羅という記述について誤解があってあならない。記紀が記されたのは奈良時代であるので新羅百済は建国されていたが、垂仁天皇の記述は神代のころで、まだ半島南部に国はなく、縄文人弥生人がいわゆる倭人と呼ばれていた九州北部および島嶼部の人びとが住んでいた未開の地が、村規模小さなクニが誕生していった頃である。

新羅という国はないので、新羅の王子であるわけがないのだ。朝鮮半島南部は大駕洛国(大伽耶と金官伽耶があり、新羅が金官伽耶を吸収したのが532年で、やがて安羅も新羅に降伏する。さらに最後まで抵抗していた大伽耶国も562年に新羅に滅ぼされた。

古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)編纂時代は、朝鮮半島百済新羅、高麗(高句麗)の三国時代であり、任那伽耶諸国は新羅に吸収されていたので、伽耶は忘れられていたか、使われなかったのか?但馬出石に安良、豊岡市加陽(カヤ)、丹後の京都府与謝野町に加悦(カヤ)など、伽倻・安羅に似た地名が残る。それはそれぞれのクニから帰国してきた倭人が、祖国を示す地名として残ったのではないかと推測できる。

『三国史記』は、脱解王は多婆那国から流れてきた新羅四代王となった 『国司文書 但馬故事記』は、天日槍の五世の祖、稲飯命と豊御食沼命は、小船に乗りながら漂流し、稲飯命新羅に上り、国王となり、その国に止とどまった。

『三国史記』では脱解王は多婆那国からとあるので日本海沿岸から、『国司文書 但馬故事記』は、瀬戸内海という違いはあるものの、奇妙な共通する内容である。

脱解王=天日槍とする説もあるが、『国司文書 但馬故事記』は脱解王は稲飯命だったのではないか。 新羅王子天日槍の祖先は丹波あるいは細かく但馬から半島南部に流れ、四代新羅国王となった。そして五世孫の天日槍は天皇神武天皇の血筋として但馬にUターン。初代多遅麻国造を任じられた。

事 例

豊岡市加陽(カヤ)と大師山(だいしやま)古墳群と伽耶、近くには出石町安良(ヤスラ)=安羅? 新羅にはつくられない金官伽耶国に共通する竪穴系横口式石室という特殊な石室。竪穴系のものと横穴系のものとがある。 ・丹後加悦町(与謝野町)と伽耶日本海最大の三大前方後円墳や古墳群の多さ、加悦町明石(アケシ)

縄文時代には、日本列島全域にわたるような遠隔地交易が存在し、ヒスイ製玉類をはじめ黒曜石やサヌカイトなどの石器用材などが特産地から港を経由して遠くの消費地へ運ばれていたとされています。 この広範な交易ネットワークには、外海航行用の大型丸木舟が不可欠であり、浦入の丸木舟は、その大きさなどから外海航行用であるとみられ、わが国における縄文時代の交易を論じるうえで極めて重要な発見といえます。

[註] 1 中洲・葦原中国(あしはらのなかつくに) 日本神話において、高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界、すなわち日本の国土のことである。 2 船師 江戸時代から明治初期にかけて、廻船を所有して海運活動を行った商人。船の運行に長けた人々のことだろう。 *3 誅 目上の者が目下の者の罪をとがめ殺すこと。

つまり、稲飯命は古代日本の皇族である。天日槍命はその人皇初代神武天皇の兄、稲飯命の五世孫で、稲飯命は倭から倭の親国のひとつである(おそらく初代)新羅王になったのだから、新羅の王子でも間違いではないのである。 『但馬故事記』八巻の中で、円山川水系朝来郡・養父郡・気多郡・城崎郡の各故事記が天火明命で始まるのに、出石郡と二方郡のみ書き出しが、大己貴命出雲国から伯耆・稲葉(因幡)・二方国を開き、多遅麻に入り、伊曾布・黄沼前・気多・津・薮・水石の県を開いで始まり、大己貴命と稲葉の八上姫の間に御出石櫛甕玉命が生まれる。御出石櫛甕玉命は、天火明命の娘・天香山刀売命を娶り、天国知彦命を生み、天国知彦命が初代の御出石県主となる。

記述が異なるのは、天火明命が但馬に入る以前より、出雲勢力の出石県・二方県があって、人皇6代孝安天皇53年、突如天日槍が登場し、初代多遅麻国造なる。御出石県主・天太耳命の娘・麻多鳥命を娶り、天日槍の子天諸杉命あめのもろすくのみことを以って、2代多遅摩国造と為す。政略結婚によって皇統の国造が気多郡に多遅麻国の府が遷るまで歴代続く。朝廷側に組み入れられたと考えなくもない。これは丹波から但馬が分国し、直轄領(天領)的に、大和政権化に組み入れられたのかも知れないが、日本海の最前線として但馬の重要性が増したのではないだろうか。

丹波大和朝廷の関係が深くなるのは、天日槍が初代多遅麻国造になる6代孝安天皇(長浜浩明氏の算定で在位期間:西暦60-110年)これより3代のちの人皇9代開化天皇(同じ算定では178-207年)からで約100年後となる。

皇后は伊香色謎命(いかがしこめのみこと) 元は孝元天皇の妃。 一番目の妃に丹波竹野媛(たにわのたかのひめ、竹野比売) - 丹波大県主由碁理の娘。 二番目の妃:姥津媛(ははつひめ、意祁都比売命)姥津命(日子国意祁都命、和珥氏祖)の妹との第三皇子が彦坐王(ひこいますのみこ、日子坐王)

人皇11代垂仁天皇(在位:290-242)が、皇后に彦坐王の女:狭穂姫命(垂仁天皇5年に焼死したとされる) 後の皇后に彦坐王の子・丹波道主王の女・日葉酢媛命 妃:渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。日葉酢媛の妹) 妃:真砥野媛(まとのひめ。日葉酢媛の妹) 妃:薊瓊入媛(あざみにいりひめ。同上) (他に、3人の妃が他の国から来ている)

INDEX
第一章 神話の中のアメノヒボコ [catlist id=603] 第二章 天日槍の足取りと神社 [catlist id=604] 第三章 ヒボコは鉄に無関係だった [catlist id=605] 第四章 ヒボコはいつ頃の人なのか [catlist id=608] 第五章 但馬国朝鮮半島南部への出兵基地だった?! [catlist id=607] 第六章 ヒボコは日本人だった [catlist id=606]
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