但馬国ねっと風土記

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但馬国ねっとで風土記

専門家ではない視点からとらわれない最新の歴史から今を知る

第三章 ヒボコと伊和大神の国争い

1.ヒボコと伊和大神の国争い

播磨国風土記』[*1]には伊和大神いわのおおかみと天日槍あめのひぼことの争いが語られている。結果としては住み分けをしたことになり、ヒボコは但馬の伊都志(出石)の地に落ち着いたことが語られている。

ヒボコは宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て、国の主の葦原志挙乎命(アシハラシノミコト)に土地を求めたが、海上しか許されなかった。 

ヒボコは剣でこれをかき回して宿った。

葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべく粒丘(いいぼのおか)に上がった。

葦原志挙乎命とヒボコが志爾蒿(シニダケ=藤無山)[*6]に到り、各々が三条の黒葛を足に着けて投げた。

その時葦原志挙乎命の黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条(ミカタ)と云う。

ヒボコの黒葛は全て但馬の国に落ちた。それで但馬の伊都志(出石)の地を占領した。

神前郡多駝里粳岡は伊和大神とヒボコ命の二柱の神が各々軍を組織して、たがいに戦った。その時大神の軍は集まって稲をついた。その粳が集まって丘とな った。

アメノヒボコは、とおいとおい昔、新羅(しらぎ)という国からわたって来ました。 日本に着いたアメノヒボコは、難波(なにわ=現在の大阪)に入ろうとしましたが、そこにいた神々が、どうしても許してくれません。

そこでアメノヒボコは、住むところをさがして播磨国(はりまのくに)にやって来たのです。 播磨国へやって来たアメノヒボコは、住む場所をさがしましたが、そのころ播磨国にいた伊和大神(いわのおおかみ)という神様は、とつぜん異国の人がやって来たものですから、

「ここはわたしの国ですから、よそへいってください」 と断りました。

ところがアメノヒボコは、剣で海の水をかき回して大きなうずをつくり、そこへ船をならべて一夜を過ごし、立ち去る気配がありません。その勢いに、伊和大神はおどろきました。

「これはぐずぐずしていたら、国を取られてしまう。はやく土地をおさえてしまおう。」

大神は、大急ぎで川をさかのぼって行きました。そのとちゅう、ある丘の上で食事をしたのですが、あわてていたので、ごはん粒をたくさんこぼしてしまいました。そこで、その丘を粒丘(いいぼのおか)と呼ぶようになったのが、現在の揖保(いぼ)という地名のはじまりです。

一方のアメノヒボコも、大神と同じように川をさかのぼって行きました。 二人は、現在の宍粟市(しそうし)あたりで山や谷を取り合ったので、このあたりの谷は、ずいぶん曲がってしまったそうです。さらに二人は神前郡多駝里粳岡(福崎町)のあたりでも、軍勢を出して戦ったといいます。

二人の争いは、なかなか勝負がつきませんでした。 「このままではまわりの者が困るだけだ。」 そこで二人は、こんなふうに話し合いました。

「高い山の上から三本ずつ黒葛(くろかずら)を投げて、落ちた場所をそれぞれがおさめる国にしようじゃないか。」

二人はさっそく、但馬国(たじまのくに)と播磨国の境にある藤無山(ふじなしやま)[*6]という山のてっぺんにのぼりました。そこでおたがいに、三本ずつ黒葛を取りました。それを足に乗せて飛ばすのです。

二人は、黒葛を足の上に乗せると、えいっとばかりに足をふりました。

「さて、黒葛はどこまで飛んだか。」と確かめてみると、 「おう、私のは三本とも出石(いずし)に落ちている。」とアメノヒボコがさけびました。 「わしの黒葛は、ひとつは気多郡(けたぐん)、ひとつは夜夫郡(やぶぐん)に落ちているが、あとのひとつは宍粟郡に落ちた。」

伊和大神がさがしていると、「やあ、あんな所に落ちている。」とアメノヒボコが指さしました。  黒葛は反対側、播磨国の宍粟郡(しそうぐん)に落ちていたのです。

アメノヒボコの黒葛がたくさん但馬に落ちていたので、アメノヒボコ但馬国を、伊和大神は播磨国をおさめることにして、二人は別れてゆきました。

ある本では、二人とも本当は藤のつるがほしかったのですが、一本も見つからなかったので、この山が藤無山と呼ばれるようになったと伝えられています。

その後アメノヒボコ但馬国で、伊和大神は播磨国で、それぞれに国造りをしました。アメノヒボコは、亡くなると神様として祭られました。それが現在の出石神社のはじまりだということです。

*6志爾蒿(シニダケ=藤無山・ふじなしやま) 宍粟市養父市の播・但国境にあるある山。標高は1139.2m。若杉峠の東にある、大屋スキー場から尾根筋に登るルートが比較的平易だが、ルートによっては難路も多い、熟達者向きの山であります。尾根筋付近は植林地となっています。

播磨国風土記

播磨国揖保川河口-粒丘(揖保郡)-神前(神崎)郡多駝里粳岡(福崎町)-志爾蒿(シニダケ=藤無山)-御方里(宍粟郡三方)御形神社 ┬-(天日槍) 出石 但馬国一宮 出石神社 └-(伊和大神)宍粟 播磨国一宮 伊和神社

播磨国風土記』 7.播磨国 宍粟御形 式内 御形神社 兵庫県宍粟市一宮町森添280 中殿 葦原志許男神(アシハラノオ) 左殿 高皇産靈神(タカミムスビ素戔嗚神スサノオ) 右殿 月夜見神ツクヨミ) 天日槍神(アメノヒボコ

ご祭神葦原志許男神の又の御名を大国主神。社名「御形」は、愛用された御杖を形見として、その山頂に刺し植え形見代・御形代より。

この神様は、今の高峰山(タカミネサン)に居られて、この三方里や但馬の一部も開拓され、蒼生(アヲヒトグサ)をも定められて、今日の基礎を築いて下さいました。  しかし、その途中に天日槍神(アメノヒボコノカミ)が渡来して、国争ひが起こり、二神は黒葛(ツヅラ)を三條(ミカタ)づつ足に付けて投げられましたところ、葦原志許男神の黒葛は、一條(ヒトカタ)は但馬の気多郡に、一 條は養父郡に、そして最後は此の地に落ちましたので地名を三條(三方)といひ伝へます。又、天日槍神の黒葛は全部、但馬国に落ちましたので但馬の出石にお鎮まりになり、今に出石神社と申します。「御形神社HP」 f:id:kojiyamane:20170113100706j:plain

播磨国風土記』の考察

播磨国風土記』では天日槍が神代の渡来神・ヒボコ命として登場し、葦原志挙乎命(葦原志許乎命・伊和大神・どちらも大国主と同一視される)と土地を奪い合った神として描かれている。記紀とは年代や争いがあったかどうかなどが異なる。

揖保郡(イボグン)、宍禾郡(シソウグン)、神前郡(カンザキグン・今の神崎郡福崎町)の地名説話として争いが描かれ、争いの結末は双方が三本の黒葛を投げる占いの結果、葦原志挙乎命の葛は播磨に一本・但馬に二本、ヒボコ命の葛は全て但馬に落ち、ヒボコ命が但馬伊都志(出石)に退くことになったとしている。

名前に「ホコ」があるようにヒボコ命には製鉄(青銅)との関連があり、これは土着勢力と渡来系の製鉄集団の鉄を巡る争いであったと考えられている。 この二人の足跡は、摂・播国境に近い神戸市西区から、宍粟郡(しそうぐん)・神崎郡(かんざきぐん)を中心とした播磨、但馬(たじま)の出石郡(いずしぐん)、という広い範囲(現在の兵庫県)に散らばっている。

しかし、『播磨国風土記』の讃用(佐用)郡(サヨグン)の項では、伊和大神は「賛用比賣命(サヨヒメノミコト)」との国占めに負けて立ち去っているから、大神自身、もともと播磨(ハリマ)にいた神ではなかったのかもしれない。普通は、『播磨国風土記』にも登場する、伊和君(イワノキミ)[*1]の一族が奉じた神であったとされています。

播磨の土着勢力は、ヒボコ命よりも早くから鉄を求めて出雲からやってきたやはり渡来氏族であろうと思います。

続日本紀養老六年(七二二)三月の条によると、播磨には鍛冶の技術者として、忍海漢人麻呂と韓鍛冶百依とがいたことが知られる。居住の郡名は不明であるが、延暦八年(789)における美嚢郡大領に韓鍛首広富がいたことからして、忍海漢人・忍海部・韓鍛冶などの製鉄技術をもつ朝鮮系渡来者は、播磨から丹波・但馬へかけて在住していたと思われる。東漢氏の系統は、上述の忍海漢人のように新羅より渡来したという伝承をもつものもあるが、おおむね百済からの渡来者と考えられる。

市川や夢前川流域には鉄の意を持つ「穴」に因んだ地名が多く、最もはっきりしているのは飾磨区阿成です。この地名は「穴師」から来ている事は明白で、ここに製鉄に携わる集落があったことがわかります。また、阿保も古代には「穴保」と記されたと思われ、網干も穴保師が、大己貴命の子、英賀比古・英賀比売の暮らした英賀も、もともとは「穴処」であったと推測されます。また、「室」という字は鉄を溶かすタタラを意味し、安室は昔、「韓室里」と呼ばれた事からも、この里は製鉄に携わる帰化人の集落であったことがわかり、その南の山吹も、自然の風を利用した吹子があったと考えられます。また、金屋町ができる以前から、野里には金屋と呼ばれた地域があり、この辺りでも鉄が作られていた事がわかります。他にも鉄を表す言葉として、「サヒ・サビ・ソブ」「サナ・シナ・シノ」「ニフ・ニブ・ニビ」「ヒシ・ヘシ・ベシ」等の言葉があり、広畑区才は「サヒ」、仁豊野は「ニブ」、別所は「ベシ」から来た地名かと思われます。  一方のヒボコも、新羅から渡来した人であります。ヒボコ自身の出自についても、『古事記』には不思議な話が伝わっています。つまり播磨にとっては、どちらも外来の人(神)であったということだろう。とあります。

これは土着の出雲民族と渡来系の出石民族の勢力争いの記憶をとどめる物語というのが定説になっているようです。このとき争った土地は、中国山地揖保川(いぼがわ)や千種川(ちぐさがわ)の流域で、かつては砂鉄の産地であったところです。ここから、ヒボコ神が古代の製鉄技術と密接に関係していることもうかがえます。

神宝の鉾は、太陽神を祀る呪具であり、朝鮮からの渡来民が使っていた太陽神を祀る祭具と考えられます。「ヒボコ」という名前自体が太陽神を祀る祭儀で使われる鉾を表しており、それは太陽神の依り代です。またここで登場する国は渡来系の人々の影響の強い土地です。定住した但馬国では国土開発の祖神とされ、現在でも厚く信仰されています。これらのことから、ヒボコは出石に住んでいた朝鮮南部系の渡来人が信仰していた神と考えられます。 いずれにせよ、「記・紀」で「天」が名前につき、皇室の祖先に深く関係する天津神並みの表記であり、他国の王子の名としては「天」の漢字がついた名は、他にあまり類例がありません。天津神とは外国の神であり、国津神・地祇神とは日本にあった土着神です。

しかし、おそらくこうした性格は、天(あま)は海(あま)で、もともと海人族(漁民)の信仰していた海、もしくは風の神と、ヒボコ神(武神)の信仰が結びついたものではないかと思われます。また、福井県敦賀市気比神宮のホムタワケ(応神天皇)とイササワケ(伊奢沙別大神)が名前を易(か)えたとされる伝えと似ており、『日本書紀』においてはヒボコ神が気比神宮に立ち寄ったとされる記述もあることから、この二神は同一神ではないかといわれています。

日本書紀に「淡路島の出浅邑 (いでさのむら)に気の向くままにおっても良い」「アメノヒボコは剣でこれをかき回して宿った。」とあり、淡路島にもヒボコの残影が色濃い。ヒボコが、海水をかき回して渦の上に宿ったというのは淡路島のことではなかったかと思えます。鳴門海峡という渦の名所があり、播磨に上陸する至近距離にあるからです。

出石の街を見下ろす丘陵地 入佐山の尾根の上に古墳時代にこの地を治めた豪族の墳墓と見られる古墳群があり、その一つの4世紀頃の方墳 入佐山三号墳には刀・武器・鏡など数々の品と共に「砂鉄」が副葬されていた。また、出石神社の北の丘陵地の山裾の袴狭遺跡出土の平安前期の木簡から「船団」を描かれており、また、この地に金属の渡来系技術集団「秦氏」の存在が裏付けられる一方、入佐山の直ぐ傍で出石川から分流する奥山川の分流地に「鍛冶屋」の地名が残っており、さらに1kmほど奥に古い由緒を持つ「伊福部神社」があります。

国宝播磨国風土記(はりまのくにふどき)

奈良時代に編集された播磨国の地誌。成立は715年以前とされています。原文の冒頭が失われて巻首と明石郡の項目は存在しないが、他の部分はよく保存されており、当時の地名に関する伝承や産物などがわかる。

【伊和中山古墳群】いわなかやまこふんぐん 宍粟市一宮町伊和に所在する、古墳時代前期~後期の古墳群。伊和神社の南東にある丘陵上に、前方後円墳1基を含む16基の古墳が確認されており、うち1号墳と2号墳の発掘調査がおこなわれています。 古墳群中最大の1号墳は、全長62mをはかる前方後円墳で、竪穴式(たてあなしき)石室内に全長5mの木棺を埋葬してありました。副葬品には国産の方格(ほうかく)T字鏡、環頭大刀(かんとうたち)、剣、鉄鏃(てつぞく)、鉄槍(てっそう)、鉄斧(てっぷ)、玉類があります。揖保川上流域における古墳時代史を研究する上で重要な古墳群です。

[註]

*1 伊和氏(いわし) 『播磨国風土記』に、「伊和君」として記される古代豪族。『播磨国風土記』によれば、もと宍粟郡の石作里(いしづくりのさと)を本拠とし、飾磨郡の伊和里(いわのさと)に移り住んだとされます。伊和大神を奉じ、これを祭る伊和神社は、宍粟市一宮町に所在します。

*6

参考資料:兵庫県立歴史博物館 但馬國出石観光協会 「考古学と歴史」放送大学客員教授奈良大学教授 白石太一郎 2009/08/29

INDEX
第一章 神話の中のアメノヒボコ [catlist id=603] 第二章 天日槍の足取りと神社 [catlist id=604] 第三章 ヒボコは鉄に無関係だった [catlist id=605] 第四章 ヒボコはいつ頃の人なのか [catlist id=608] 第五章 但馬国朝鮮半島南部への出兵基地だった?! [catlist id=607] 第六章 ヒボコは日本人だった [catlist id=606]
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