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第三章 4.ヒボコより伊和大神の方が鉄集団っぽい

3.ヒボコより伊和大神の方が鉄の集団っぽい

播磨国風土記』にある伊和大神とヒボコの争いを、鉄原料の奪い合いであると見て、タタラ製鉄に優れていた出雲からやって来た伊和大神の方が鉄の集団にふさわしいという説もある。

伊和大神(いわのおおかみ)

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播磨国一宮 伊和神社

兵庫県宍粟市(旧一宮町)にある神社。宍粟市一宮町須行名407 播磨国一宮で、延喜式内社(名神大社)、旧社格は国幣中社

伊和神社の社叢(しゃそう)は、「兵庫の貴重な景観」Bランクに選定されている。祭神は伊和大神(大己貴神おおなむちのかみ)を祀る。『播磨国風土記』にその名が見え、神社周辺は豪族・伊和族の根拠地であったと考えられます。末裔の伊和一族が祭祀したとみられている。

播磨国の国土開発の神として大己貴神(おおなむちのかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)、大名持御魂神(おおなもちみたまのかみ)とも呼ばれ、『播磨国風土記』では、葦原志許乎命(あしはらしこおのみこと)とも記されている。『播磨国風土記』も伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神であると思わせる構成であるのだ。

播磨国の「国造り」をおこなった神とされており、記紀にはないヒボコとの土地争いが記されている。

播磨国風土記』には、宍粟しそう郡から飾磨郡の伊和里いわのさとへ移り住んだ、伊和君いわのきみという古代豪族の名が見えることから、この伊和氏が祖先を神格化した神と考えられている。

播磨国風土記』によると、大己貴命は出雲から来た神と記されている事から、大己貴命は出雲から宍粟市一宮町伊和あたりに住みつき、勢力を拡大し、伊和族とともに播磨統一を目指したと思われてきた。しかし最近では、大己貴命奈良県桜井市にある三輪山付近で勢力を伸ばしていた一族の長で、この三輪族がなんらかの理由で三輪の地を離れ、海路、播磨に辿り着いたのではないかと言われ始めている。また、播磨土着の神が、後に大国主神に習合されたという見方もある。

播磨国風土記』によれば、大己貴命が姫路平野に辿り着き、居を構えた手柄山てがらやま南方の山を、三和山と名付けたと言います。(大和の)三輪山西南麓には金屋遺跡があり、ここからは縄文時代初期の土器が発見されており、日本で最も早く拓けたところと思われますが、この遺跡からは弥生時代の遺物とともに、製鉄が行われていた事を示す遺物が発見され、近くの穴師兵主神社にも鉄工の跡が見られると言います。つまり、この三輪山は古代の鉄生産に関わる山であり、この山を御神体とする大神おおみわ神社の御祭神は大物主大神で、この神も大己貴命と同一神とされています。

『古代の鉄と神々』

砂鉄を含む山は「鉄穴かな山」と呼ばれ、砂鉄を採る作業を「鉄穴(かんな)流し」と言い、そこで働く人々を「鉄穴師かなし」と呼びます。つまり古代において「穴」は「鉄穴かな」の意から「鉄」を表し、大己貴命は「大穴持命」・「大穴牟遅命」とも記す事から「偉大な鉄穴の貴人」という意味で、すなわち「鉄穴」の神であり、産鉄の神であったということがわかります。大己貴命という名は、新しい産鉄・製鉄の技術を持った鉄鍛冶の長が代々、継承した名前かと思われ、播磨に辿り着いた大己貴命とその一族は、市川や夢前川、揖保川流域の砂鉄を使って、鉄を作り、武器や農具に変えて、播磨を支配下に入れ、豊かな田園地帯を作り上げて行きました。

播磨風国土記には、大己貴命とともに大活躍を見せる少彦名命すくなひこなのみことという神さまが登場し、2人の神さまが競う様に市川を北上し、播磨を開拓して行く様子が描かれています。日本書紀によると、大己貴命が出雲の海岸で少彦名命と出会った時、少彦名命は手のひらに乗るほど小さく、まだ言葉もしゃべれなかったといいます。その後、大己貴命は、少彦名命の父神さまに会い、弟として一緒に国づくりをさせてやってくれと頼まれたと言います。産鉄・製鉄の神さまである大己貴命に対して、少彦名命は、薬学や養蚕、酒造りなどの神様と言われ、日女道丘ひめじおか(姫路城のある今の姫山)に落ちた蚕子は少彦名命の荷物かもしれず、播磨で酒造りが盛んなのも少彦名命のお陰なのかもしれません。

葦原志許乎命の葦原とは

『播磨風土記』 では、伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神であると思わせる構成である。葦原醜男は葦原志許乎命とも記すが、葦原とは何かを知ることが必要になってくる。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏は、

古事記』は、わが国を「豊葦原の瑞穂の国」と記している。瑞穂の国はみずみすしい稲穂の実る国で理解できるが、豊葦原はわからない。(中略)古代の人は鉄鉱の団塊が葦など植物の根などから長い間に褐鉄鉱が生成・蓄積され水辺に層をなすことを知っていた。これをスズ(錫)と称し、万葉集信濃の枕詞として「みすず苅る」も用いる。ミスズ(信濃)はスズが特産であり、当時から鉄は貴重品であり、その意味でスズに「ミ(御)」をつけたのであろう。

諏訪大社は古代の製鉄に関与した社で、古代よりスズを用いた製鉄が盛んだったことが浮かび上がってくる。

実は、古代日本は製鉄原料の事欠かなかった。火山地帯の河川や湖沼は鉄分が豊富で、水中バクテリアの働きで葦の根からは褐鉄鉱が鈴なりにできたからだ。では何故、鈴なり=鈴というのか。

振ると音のする鈴石や鳴石というものがある。これも葦などの根を包むように成長し、形成された褐鉄鉱の内部の根が枯れて消滅し、内部の鉄材の一部が剥離して、振ると音を出すことがある。これが鈴石などとよばれるのである。

そして足などの根に楕円・管状になった褐鉄鉱が密生した状態が「すずなり=鈴なり=五十鈴いすゞ」の原義であった。(中略)これを横にすると何処か銅鐸に似ているように見えないか。

ここに豊葦原の意味がわかった、といっていいだろう。わが国では神代の昔から鉄が作られ、人々は製鉄職人を崇め、最初の原料はスズ=褐鉄鉱であった。

当時の人々は、「葦原」はスズを生み出す源であることを知っていた。したがって、「豊葦原」とは、「貴重な褐鉄鉱を生む母なる葦原」と云う意味なのだ。(中略)

それが各地から出土する銅矛で象徴されたと考えてよい。また鐸とは「大鈴なり」とあるように、鈴石の象徴で、これを打ち鳴らすことで葦の根にスズが鈴なりに産み出されることを祈ったのだろう。そして祭器としての矛や鐸は、古くは神話にあるように鉄が使われていたが、青銅器を知るに及んで、加工しやすく、実用価値の低い青銅を用いるようになっていった。このような考えに逢着ほうちゃくしたのである。

太古、「豊葦原」から産み出されるスズから鉄を作り、その鉄を使った農具で開墾し、「瑞穂の国」を造る。この両者は、古代より豊かな国の礎いしずえ、両輪と認識されていたゆえに、わが国の美祢となったのである。

気多郡に葦田郷がある。式内葦田神社がある。(今の豊岡市中郷)

『但馬故事記』にその名が現れるのは、人皇15代神功皇后2年に、気多の大県主の物部連大売布命が亡くなり、その子・物部多遅麻連公武をもって多遅麻国造とする。物部多遅麻連公武は、

天目一筒命の末裔・葦田首を召し、刀剣を鍛えさせ、 彦狭知命の末裔・楯縫首を召し、矛・楯を作らせ、 石凝姥命の末裔・伊多首を召し、鏡を作らせ、 天櫛玉命の末裔・日置部首を召し、曲玉を作らせ、 天明命六世の孫、武碗根命の末裔・石作部連を召し、石棺を作らせ、 野見宿禰命の末裔・土師臣陶人を召し、埴輪・甕・ホタリ・陶壺を作らせ、 大売布命の御遺骸に就け・・・

またずっとのちになり、人皇37代孝徳天皇の 大化三年、気多郡高田邑に兵庫を造り、軍団を置き、出石・気多・城崎・美含を管轄する。その際に役職に隊正があり、それぞれ上記の村の男を任命している。

また、葦田氏に剣・鉾・鏑・鏃やじり を鍛えさせている。

鉄ならオオナムチにおまかせ

『但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記)は、天火明命(あめのほあかりのみこと)から始まる。天火明命は、ここでは天照国照彦天火明命(あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと)と書かれ、田庭(丹波)を国作大巳貴命から授かり田を実らせ、国作大巳貴命の勅により谿間(但馬)に入り、両槻天物部命の子・佐久津彦命に佐々原を開かせた。(中略)気多郡佐々前(ささくま)村これなり。(今の豊岡市日高町佐田周辺)

人皇1代神武天皇9年冬10月、佐久津彦命の子・佐久田彦命を(初代)佐々前県主となす。佐久田彦命は国作大巳貴命を気立丘に斎き祀る。

これを気立神社と称す(郷社 気多神社:兵庫県豊岡市日高町上郷)。 また佐久津彦命を佐久宮に斎き祀る。(式内 佐久神社:兵庫県豊岡市日高町佐田) 御井比咩命を比遅井丘に斎き祀り(式内御井神社:兵庫県豊岡市日高町土居、古くはヒジイと読む)

気多(氣多)神社 兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227 式内社 但馬國総社[*1] 気多大明神 御祭神 「大己貴命

境内社には、八坂神社、須知神社、八幡神社愛宕神社等が祭られている。

伝承や神話は、現実離れした荒唐無稽な話しが多いが、しかしまったくでたらめなら意味もなく何代にも渡って語り継がれたものは荒唐無稽とはいい切れない。

太古山陰地方は「大国主命」の支配地で、命は但馬や播磨では「葦原志許男命」と称させていた。 新羅国の王子「天日槍」が宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て、「葦原志許男命」と支配地争いになったが、和解の結果、志爾蒿(シニダケ)山頂から両者三本の矢を射て支配地を決めることになった。

天日槍の放った矢は全て「但馬」に落ち、葦原志許男命の放った矢は一本が養父郡に落ち、一本は気多郡に落ちた。 そこで天日槍は但馬の出石を居住地に定め、葦原志許男命は新たに建立された「養父神社」と「気多神社」に「大己貴命」(おおなむちのみこと)の神名で祭祀された。(『播磨風土記』)

国司文書」によれば気多神社は神武天皇九年(前651)に気立(気多)の丘に創建された。大化改新後は国府地区に但馬国府が設立され、気多神社は「但馬国総社」として崇敬を受けた。中世以降は頼光寺に一郷一社の「惣社大明神」として鎮守し、当時の社殿は、檜皮葺き三社造りで、本殿は四間四面欄干造り、拝殿、阿弥陀堂、鐘楼、朱塗り山門等七堂伽藍の整った大社だったが、豊臣秀吉の但馬侵攻により灰燼に帰した。

因みに『但馬故事記別記』(但馬郷名記抄)には、こう記されている。

気多は気多都県なり。(故事記には気立県と書くものもある)この郡の西北に気吹戸主神の釜(噴火口跡のことだろう)あり。常に烟を噴く。この故に気多郡と名付け、郡名となす。今その山を名づけて「神鍋山」という。 気多神この地に鎮座す。祭神は国作大巳貴命・物部多遅麻連命・大入杵命三座。(郷社 気多神社のこと) 現在は 大巳貴命のみ

大己貴命と葦原志許男命、大国主オオクニヌシ)は同一神で、全国の出雲神社で祀られています。

気多神社がある上ノ郷の隣に中ノ郷がある。古くは気多郡葦田村で、『但馬故事記』に、鉄の鍛冶と関係する記載がある。

人皇神功皇后の2年5月21日、気多の大県主・物部連大売布命が薨ず。射楯丘にもがりす。(中略)子・多遅麻国造・物部多遅麻連公武は、 天目一筒命の末裔、葦田首を召し、刀剣を鍛えさせ、(今の中郷) 彦狭知命の末裔、楯縫首を召し、矛・楯を作らせ、(今の鶴岡多田谷) 石凝姥命の末裔、伊多首を召し、鏡を作らせ、(今の鶴岡) 天櫛玉命の末裔、日置部首を召し、曲玉(マガタマ)を作らせ、 天明命六世の孫、武碗根命の末裔、石作部連を召し、石棺を作らせ、(石作部の末裔に気多軍団の隊正に石井がいる。今の石井か?) 野見宿祢命の末裔、土師臣陶人を召し、埴輪・甕・ホタリ・陶壺を作らせ、(陶谷=式内須谷神社のある奈佐路) 大売布命の遺骸につけ…

すでに述べたように、葦田は葦が生い茂り、そこからは褐鉄鉱が生み出されるから、製鉄、鍛冶作りの邑であったことが記されている。矛・楯を作る楯縫首の村とは、多田谷でタタノヤ=タタラの屋か谷であろう。ここも製鉄が行われていたことを思わせる。(朝来市にも多々良木がある)

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