但馬国ねっと風土記

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専門家ではない視点からとらわれない最新の歴史から今を知る

神功皇后と朝鮮半島

但馬国誕生ものがたり ▼作品集

第五章 神功皇后・但馬物部氏

『但馬故事記』(第五巻・出石郡故事記)に、

第6代孝安天皇の御代、新羅の王子天日槍が但馬出石で帰化し、初代多遅麻国造となった。 突如、よそ者、しかも新羅の渡来人が大丹波では中心から離れた但馬に入っていて、但馬国を分立する。そのようなことが出来るのは、大和朝廷が関与しているからに他ならない。

第10代崇神天皇の御代に丹波青葉山の陸耳の御笠・多遅麻狂い土蜘蛛を退治した話が詳細にわたって記されている。それは丹後・但馬の地方豪族を平定し、ヤマト王権下に完全に組み入れられたことを記しているのだろう。

それは半島南部との中継地として、但馬が有利であったからではないだろうか。 大和から日本海へ向かうルートとして若狭・丹後が使われていたが、摂津から氷上(本州一低い分水嶺)から日本海由良川・瀬戸内海へ加古川が流れる。さらに遠坂峠を越えれば但馬国の粟賀川から円山川日本海で出られる最短コースが重要視されたのではないだろうか。宮津湾・舞鶴湾に出れば、丹後半島を周ることになるが、それより西の円山川あるいは久美浜湾から出航した方が半島に近いからである。また、大和から大阪湾に出て瀬戸内海から関門海峡を通るルートも考えられる。その方が波の影響もなく安全に思えるが、半島からの侵攻に備えて、北部九州から日本海側を防衛する目的も兼ね備えていたのだろうとも考えられる。

但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記)に、人皇15代神功皇后の2年、大県主・物部連大売布命もののべのむらじおおめふのみことの子・多遅麻国造たぢまのくにのみやつこ・物部多遅麻連公武きみたけ、府を気多県高田邑に置く。(今の久斗・東構境あたり・南構遺跡?)

45年、新羅朝貢せず。将軍・荒田別命あらたわけのみこと(豊城入彦命4世孫)・鹿我別命しかがわけのみこと(大彦命の末裔)*1

は往きてこれを破る。

比自[火本]ヒシホ・南加羅アリシヒノカラ・啄国トクノクニ・安羅アラ・多羅タラ・卓淳トクジュ・加羅カラの七国を平むける。兵を移して西に回り、古奚津コケツに至る。南蛮アリシヒノカラを屠はふり、もって百済クダラに賜う。

百済王は「もし草を敷いて座れば、おそらく火で焼かれ、木を取って座れば、おそらくは水で流されるであろう。もって、盟を表し、永久に臣を称する信条なり。」

新羅親征(征韓)となり、出石県主・須義芳男命は皇后に従い、新羅を征ち功を上げ、皇后は特に竃遇を加えている。(第五巻・出石郡故事記)

なんとしても日本を守らねばならない国家的危機意識があったのではなろうか?袴狭遺跡の大船団を描いた木版画は、のちの神功皇后新羅征伐を描いたものかも知れない。

のちの人皇37代孝徳天皇大化3(647)年、多遅麻国気多郡高田邑において、兵庫を造り、郡国の甲冑・弓矢を収集し、もって軍団を置き、出石・気多・城崎・美含を管どる。(同年、朝来郡にも同様の軍団を置いて、朝来・夜父・七美三郡を管どる。)

人皇40代天武天皇4(677)年になると、但馬国などの十二国に勅して、兵政司を置き、諸国の軍団を管せしめ、王(天皇)孫・栗隈王をもって長官と為し、大伴の御行をもってこれに副う。

として、諸国の軍事をさらに強化している。

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