但馬国ねっと風土記

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筑紫紀行 巻九より 3 養父郡へ

十日晴れ。卯の刻過ぎに立ち出ず。 二丁行けば堀畑村。農家三十軒ばかりあり。五丁ばかり行けば西は出石領、東は御公領(天領)という領地境の表あり。

これより大川(円山川)の岸を通って二十丁ばかり行けば養父(やぶ)の宿。(高田より是まで二十五丁)人家二百軒ばかり。商家大きなる造酒屋、茶屋、宿屋多し。宿もよき宿多し。町の中通に溝川有り。町を離れれば、道の両側松の並木のあるべき所に、桑をひしと植え並べたり。一丁ばかり行けば左の方に水谷大明神の宮あり。これは神名帳但馬国養父郡水谷神社とある御社なり。坂を登りて随身門のあるより入りて拝す。 門は草葺き(かやぶき)、拝殿本社は檜皮葺き(ひはだぶき)なり。左の方にお猫さまの社とて小さき宮あり。宮の下なる小石をとり帰って家に置く時は鼠をよく捕らうという。又、しばし行きて五社明神の御社なり。これは神名帳但馬国養父郡夜父座神社五座とある神社なるべし。今は藪崎大明神と申すなり。また一丁ほど奥の方に山乃口の社といふあり。是は狼を神に祭る御社なりといへり。故にこの神は狼を遣い□という。社僧の居所は水谷山普賢寺。本尊は薬師如来なる。

さて、大道を帰って五、六丁行けば、薮崎村(養父宿よりここまでニ五丁)。 人家四、五十軒。茶屋、宿屋あり。村のはずれより左へ行けば因州(因幡)道、右へ行けば湯ノ島道なり。一丁ばかり行けば大屋川。幅六、七十間もあるべし。夏秋の間は歩いて渡るも、冬春は舟にて渡すという。(中略)

六、七丁行けば網場(なんば)村。(薮崎よりここまで半里)人家百軒ばかり。茶屋宿屋あり。一丁ばかりゆけば下れば村。農家ニ、三十軒あり。五丁ばかりゆけば大森川。幅六、七十間あるを歩いて渡る。冬春は舟にて渡るという。川を渡れば大森村。御公領なり。農家ニ、三十軒。この辺り別に蚕飼を多くして家ごとにおびただしく飼う。

十丁ばかり行けば小田村。(網場よりここまで二十丁)人家四、五十軒。茶屋ありて宿屋なし。まっすぐに行けば出石の城下小出家へ。左の方湯ノ島の道にかかって三丁ばかり行く間に人家百軒ばかり立ち続くなり。また行けば下小田村。農家五十軒ばかりあり。これよりいささか上りありの坂を越えて五丁ばかり行けば江の宮(今の寄宮)村。農家ニ、三十軒あり。冬春はここより湯島へ渡る舟あり。夏秋は水浅きによりて渡さずという。二丁ばかり行けば、宿南村。農家三、四十軒。村はずれに茶屋のあるに立ち入り暫し休んで平道五、六丁行けば、左は岩山。右は気多川(円山川の気多郡内流域の名)にゆく。岩山の裾の川岸の上をば小坂を上り下りつつ行く足いと痛し。この間を岩箒(ほうき)というとなり。

十丁ばかり行けば浅倉村。農家五、六十軒。茶屋一軒あり。村の出口に滝中川となり。幅十間ばかりの川あると歩いて渡る。

*1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
 *変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す
 『筑紫紀行』巻1-10  巻9
 吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張) : 東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより
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