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日本文学概論 2/2

これは放送大学『日本文学概論』島内裕子 放送大学教授の授業科目をまとめたものです。

6 兼好と頓阿

1.文学の再構築

「誰でも書ける散文」のスタイルを提起した兼好 「誰でも詠める和歌」のスタイルを提起した頓阿

兼好 『徒然草』の著者。この二人は、藤原定家の粗孫に当たる二条為世(1250-1338)門下の「和歌四天王」と呼ばれた同時代の歌人。四天王の残りの二人は、浄弁と慶雲(父子) 兼好は散文を、頓阿は和歌を、それまでにないくらいに大きく進展させた。 兼好と頓阿によって文学概念が、現代まで直接繋がるような変貌を遂げた。

藤原定家が切り開いた本歌取り文化圏は、『小倉百人一首』という誰でも暗誦可能なシステムによって、第一歩が記される。後続する文学者たちは、このシステムを補強・修正しながら、永く機能させ続けた。そのシステムの一人が、頓阿だった。頓阿は、定家の学習システムを応用して、「誰でも詠める和歌の書き方」を創出した。

2.兼好の散文

新しい散文のスタイル

文学を大きく和歌と散文に分けて考えるなら、和歌は五句・三十一音という定型の文学。

和歌にはさまざまな制約があり、むし制約を守ることが、おのずと和歌らしさを生み出す。 和歌の稽古を重ねれば、上達が保証される。

散文にはそのような枠組みがないだけに、「何を、どう書くか」という最初の段階で早くも頓挫しかねない。 ただし、散文の中にも物語というジャンルは、『源氏物語』において、ストーリー・登場人物・場面設定などが集約されている。既に大きな枠組みが完成しているので、『源氏物語』に学べば書きやすい。そのことと、日本文学における隆盛とは、決して無関係ではない。 日記や紀行文学は基本的には自分自身が体験した日々の出来事や、旅のありさまを書くという枠組みがあるので、これもその枠組に則ることによって、筆はおのずと進む。

兼好(1283頃-1352頃)の『徒然草』は、それ以前に書かれた散文とどこが違い、どこが新しいのか。

散文の多様性をまず最初に提示したのは『枕草子』(清少納言)。ごく短い単語の列挙とも言えるような、「もの尽くし」の文体。「山は」「木の花は」「美しきもの」「ただ過ぎに過ぐるもの」など。一つの命題のもとに、それに適合するものがいくつも集められる。

枕草子』は、清少納言という個性が見聞し、彼女が書くに値すると認定した話題である。清少納言が自由に伸び伸びと書いているが、散文システムとしては誰もが模倣できるものではないという限界が指摘できる。『枕草子』と同様のことは、鴨長明(1155頃-1216)の『方丈記』にも言える。

徒然草』の画期性と影響力

徒然草』の画期的だった3つの重要な点

  1. さまざまな話題や内容を、次々と転換しながら、短いサイクルで書き連ねる文学形式を明確化した。
  2. 書かれている内容に応じて、文体も多様であること。王朝的な散文(和文)・和漢混淆文(漢文調)
  3. 真摯なもの、ユーモラスなもの、哀愁に満ちたものなど、表現の幅が大きいこと

この3つの要素から、『徒然草』は散文の手本となった。簡素で分かりやすく、多彩な内容を、ユーモアと鋭い洞察力を発揮しながら、自分の体験を超えて思索を外界に広く及ぼした。『徒然草』を読んだ後世の人々は、散文の極意をおのずと掴みとることができた。簡潔でわかり易い文章を書く方法を手に入れた。

3.歌人・歌学者としての頓阿とんあ

頓阿(1289-1372)は、和歌四天王の筆頭歌人。子孫はずっと歌人の系譜を守り、室町時代には断絶した二条家に替わり、二条派の正統として歌道の第一人者となった。頓阿の和歌の師匠である二条為世は、定家の曾孫で、為世の高弟である和歌四天王たちに『古今和歌集』の伝授を行っている。頓阿の子孫が連続して古今伝授という和歌の最高権威の裏付けを得て、和歌の伝統を室町時代まで繋げた。

頓阿は歌論書『井蛙抄せいあしょう』『愚問賢注ぐもんけんちゅう』を著し、和歌の読み方や本歌取りについて、懇切丁寧に解説している。和歌の正統たる二条派の歌学を、万人に開かれたものとすることにより、和歌の裾野を広げようとした。

『草庵集』の影響力

頓阿の和歌は、『草庵集』と『続草庵集』にまとめられている。『頓阿法師詠』は、延文2年(1357)に頓阿自身が、おそらくは勅撰集である『新千載和歌集』の選集史料として、自作をより直ぐって提出したものと見られ、368首から成る。

恩頼図みたまのふゆのず』は、本居宣長が学恩を受けた人々を図示したもので、宣長の子である本居大平が書いたもの。その中に頓阿の名前が挙げられている。また頓阿の家集『草庵集』に対して『草庵集玉箒たまははき』という注釈書も書いている。

明治時代以前には、頓阿は和歌を学び、和歌を詠もうとする人々にとって、歌人の代名詞のような存在だった。

近世、頓阿の『草庵集』の歌を、歌題別に分類し直して配列した『草案和歌集類題』(1695)が作られた。この時代の和歌は、自由に自分の感情を詠むものではなく、歌の題に沿って詠むものであった。表現・内容にある種の類型性が求められ、その累計性が歌を詠む人と歌を鑑賞する人との「共通理解」を可能としていた。どのような題の場合にどのような和歌を詠むかということを学び、認識しておくことは、和歌の初学者にとって必須のことだった。頓阿の和歌は初学者にとって最適であり、頓阿の和歌を学ぶことが「歌人への道」であった。

近世には、頓阿の『草庵集』に関する注釈書が次々と書かれた。

兼好と頓阿

兼好と頓阿が切り開いた、散文と和歌の普遍化は、すぐには花開かなかったが、近世に入ってから彼らの新機軸が幅広い範囲に浸透し、近世の和歌や散文を作り上げる基盤となった。

7 転換期の文学

1.文学の継承

師承ということ

14世紀頃から、文学的な直接の師弟関係がかなりはっきりとわかるなるようになる。

兼好や頓阿の時代以降、まず、今川了俊いまがわりょうしゅん(1326-1414頃)

九州探題に任じられた武将であるが、歌人としても優れ、冷泉為秀に学んだ。冷泉家は、二条家と同じく藤原定家の血脈を受け継ぐ和歌の名門。

主な著作 歌道教訓書『了俊弁要抄りょうしゅんべんようしょう』、『了俊歌学書りょうしゅんかがくしょ』『落書露顕らくしょろけん

正徹(1381-1459) 了俊に和歌を学び、室町時代を代表する優れた歌人。歌論書『正徹物語』 心敬しんけい(1406-75) 正徹の弟子。 東常縁とうのつねより(1401-84) 〃 宗祇そうぎ(1421-1502) 常縁から古今伝授を受け、心敬からは連歌を学んだ。一条兼良からも、『伊勢物語』や『源氏物語』などの古典学や有職故実などを学んだ。

正徹による中世文学の集約

正徹は、歌論書『正徹物語』の冒頭で、歌道に生きるものの心得として、「この道にて、定家を蔑せむ者は、冥加も有るべからず。罰を蒙るべきことなり」と述べている。歌人は定家一筋に学ばなくてはならず、そうしないと、必ずや罰を受ける事になる、というのである。それくらい強く確信して、藤原定家の歌がすべてだと、正徹は考えている。しかしその直感とも言えるような確信は、膨大な読書体験と永年の試行錯誤の結果でもある。

師承ししょう」とは、過去の偉大な文学者との心の交流が生まれることである。この師承をさらに確実に形にすべく、二人の文学者が師と弟子として向かい合い、「文学の本質」を継承する儀式こそが、「古今伝授」なのだ。

「古今伝授」に連なる中世後期の文化人たちは、揃って『源氏物語』や『伊勢物語』の重要な注釈書を残している。「古今伝授」は、和歌だけでなく王朝物語のエッセンスの伝授をも目指していた。

細川幽斎と古今伝授

その中で、『明星抄みょうじょうしょう』を著した三条西公枝から「古今伝授」を受けたのが、細川幽斎(1534-1610)である。幽斎は、藤原定家から流れ始めた中世の和歌文化と物語文化を、総合して受け継いだ。言い換えれば、幽斎は古典文化全体の体現者だった。幽斎は、足利将軍家織田信長豊臣秀吉徳川家康に仕えた。戦国時代から徳川時代まで、権力の中枢にあって、戦乱の時代を生き抜き、熊本藩54万石の基礎を築いた武将である。彼は卓越した文化人でもあった。

幽斎の場合は、その時々の権力者との関わりの中で、文学的な教養が大いにプラスに作用した。豊臣秀吉の和歌や古典の師匠として多くの逸話を残している。秀吉の死後、「古今伝授」の存在を天下に知らしめる出来事が起こった。慶長五年(1600)の関が原の合戦の前夜、徳川家康の東軍に属し、居城である田辺城(現。京都府舞鶴市)に籠城する幽斎を、西軍の石田三成の軍勢が包囲した。この時、「古今伝授」を絶やさないため、後陽成天皇の勅命で、和議が結ばれたのである。

これが示すように、文学は政治と密接に結びついていた。文学の力は、政治を動かすまでに大きかった。この時代頃から、貴族以外の人々の中からも、一生を文学に賭ける人々が現れる。

幽斎の教養は測り知れなく、室町時代までに蓄積された古典学(古典文学の註釈研究)は、膨大な量にのぼっていたが、それを整理して集大成して、時代に手渡したのが幽斎である。家集『衆妙集』、紀行文『九州道きゅうしゅうみち』がある。学問の集大成としては、『伊勢物語』の注釈書の金字塔である『伊勢物語闕疑抄けつぎしょう』がある。また中院通勝なかのいんみちかつ(1556-1610)に古今伝授を授け、資料を提供し、助言も与え、中世源氏学の集大成『岷江入楚みんごうにっそ』がある。

3.中世から近世へ

松永貞徳の功績

松永貞徳(1571-1653)は、細川幽斎から古今伝授を受けた文化人。「地下伝授」の水路を開き、古典文学の教えを庶民に広げる役割を果たした。貞徳が書いた『戴恩記』は、彼の学問の師匠たちを回想しているが、その数は50数人にも上る。

北村季吟の歌学拝命と註釈書の刊行

松永貞徳の弟子 野々口立圃(1595-1669) 『源氏物語』のダイジェストである『十帖源氏』『おさな源氏』。貞徳の周囲で、註釈と本文を合体させた『首書源氏物語』、挿絵入りの『絵入源氏物語

北村季吟(1624-1705) 貞徳の弟子 『源氏物語』を広く一般に解き放った注釈書『源氏物語湖月抄』。幕府の歌学方に抜擢され、66歳で京都から江戸へ出て、82歳で没するまで江戸で暮らす。

北村季吟の文化的業績としては、『増山井』における知識の集約。かなりの頻度で、一条兼良の『公事根源くじこんげん』『世諺問答せげんもんどう』の書名を挙げながら、季語、とくに年中行事の解説を書いている。これを読めば、江戸時代の人々は王朝時代以来の宮廷文化の一端に触れることができる。文化・文学の蓄積が、15世紀の一条兼良によって総合され、季吟の選択眼によって時代を超えて当時の社会に十分に機能する項目が選び取られたので、『公事根源くじこんげん』『世諺問答せげんもんどう』が忘れ去られることはなかった。

文学が大きく変わる時

日本文学の流れ

室町時代、特に後半 それ以前の文学が集大成され、大きく変容した転換期

近世 貴族階級から武士出身者へ、文学の担い手が変わった

 

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