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【考察】糸井造と池田古墳長持型石棺の主 (宿南保氏『但馬史研究』第31号 平成20年3月)での内容である。

当時の私は、まだ式内社について現地調査もままならない時期であり、朝来市和田山町糸井と大和(奈良県川西町)に残る糸井神社や三宅町にある上但馬・但馬の地名、三宅と豊岡市三宅に、天日槍氏集団の全体像を描き出す考察を読んで、天日槍と糸井は関係があるらしいと関心を抱いていた。

糸井は元は養父郡だったが、その養父郡でも端に当たる糸井地区に、佐伎都比古阿流知命神社(寺内)と更杵村大兵主神社、桐原神社と狭いエリアに3つも式内社があるのが不思議なこと、佐伎都比古阿流知神社を天日槍の裔とゆかりのある神社だといわれている。

6年前の2009年に糸井地区の佐伎都比古阿流知神社(寺内)と更杵村大兵主神社、桐原神社等を回ってみた。2013年には奈良県川西町の糸井神社や三宅町但馬に行ってみた。地理や地図好きだったので、中学の頃からなぜ奈良に但馬という集落があるのか記憶にあって不思議に思っていたのだ。田島や田嶋なら分かるけど、国名である但馬というのは普通は読めない。同じ但馬なのはなぜだろうと思っていたのでその頃から行ってみたかった所である。田原本町三宅町・川西町周辺は大和盆地の平野部に田園が広がり、その中に集落が点在する。これといって変化のない同じ景色が続いている。

さて、本稿の「【考察】糸井造と池田古墳長持型石棺の主」で宿南氏は、

『川西町史』では、結崎市場垣内の糸井神社の「糸井」は10世紀後半の『和名抄』の城下しきのしも郡には見当たらない。平安時代の延久二年(1070)の「雑役免帳」には「糸井南庄」と「糸井北庄」という二つの荘園があるが、現在の地名に当てはめると、田原本町の東部付近になってしまい、現在の結崎付近とはかなり離れた場所となる。したがって糸井庄にあった糸井神社とはいえないのである。 (中略) 『出石町史』第1巻の「天日槍にまつわる式内社」では、その数14社、うち出石郡9社、気多郡に3社、城崎郡2社である。このほか養父郡糸井村にも確実な1社があるから15社となる。*1 (中略) 但馬には兵主神社が7社もあるといわれているが、その中で「大」が冠せられているのは更杵村兵主神だけである。*2 (中略) 式内社で寺内区に鎮座する神社は延喜式に佐伎都比古阿流知命神社と更杵村大兵主神社二座と記されている。*3この神社の祭神がヤマトへ渡って糸井造になった人と関係があるように解するのは、『校補但馬考』著者の桜井勉氏である。「日槍命の子孫、糸井と姓とせしもの漸次繁殖し、その大和に移りしものは、大和城下郡に糸井神社を建立し、但馬に留まりしものは、本郡(養父郡)にありて本社(佐伎都比古阿流知命神社)を建立し、外家の祖先を祭りしものならんか」実のところよくわからないというのが本音といってよかろう。ただし日槍伝承をもつ集団の子孫たちが大和と但馬に分かれ、大和へ渡った者たちが寺内に佐伎都比古阿流知命神社を建立したとは考えられるところである。

本稿で、『川西町史』では「糸井庄にあった糸井神社とはいえないのである。」としているのに、『出石町史』の「天日槍にまつわる式内社」で、「養父郡糸井村にも確実な1社がある」*4として、よく調べもせずに『出石町史』の「天日槍にまつわる式内社」をそのまま引用されているのは腑に落ちないのだ。言うまでもなく『市町村史』の多くは、地元郷土史家の並々ならぬ研究成果も参考に編纂されていて、大いに参考になるものばかりだが、記述の中には誤りや、編者の歴史的事実に基づかない憶測や、その後の発掘や史料等、歴史的事実の発見によって正しくはないものも含まれている。また、その桜井勉氏『校補但馬考』は、「但馬故事記」等を偽書と決めつけたり、その努力は敬意を評しながらも、調べることもせず、誤った記述もあるのである。

[筆者註]

*1 後世に祭神を天日槍の末裔やゆかりの神にかえられたことで、祭神変更は村々の諸事情によるものであり、それ自体は問題ではない。しかし、歴史は事実を探ることである。

まず天日槍系の神社が出石郡9社であるが、出石神社(天日槍)、諸杉神社(日槍の子)、須義神社、中嶋神社、日出神社の5社であり、あとの4社には、比遅神社、多遲摩比泥神、御出石神社とあと1社は不明だが、気多郡に3社、城崎郡2社についても祭神を後世に天日槍の末裔や関係者に変更したものだ。「養父郡糸井村にも確実な1社がある」は*3を参照のこと。

*2 大兵主は他に出石郡 大生部大兵主神社がある。ともに陣法博士・大生部了等が兵庫の側に勧請したもので、糸井だけが特別な兵主神社とはいえない。

*3 「寺内区に鎮座する神社は延喜式に佐伎都比古阿流知命神社と更杵村大兵主神社二座と記されている」とあるが、佐伎都比古阿流知命神社は『但馬故事記』『但馬神社系譜伝』では、養父郡坂本花岡山鎮座。なぜその後糸井に遷座されたか、または勧請されたかは不明である。佐伎都比古命とその子阿流知命は、ともに屋岡県主(養父郡司の前進)である。佐伎都比古命(彦命)は、佐々前県主佐伎津彦命の子。天日槍とはまったく無関係であるが、阿流知命を『古事記』で天日槍の妻となった阿加流比売と混同したのだろう。阿加流比売がいなくなり、多遅摩之俣尾の娘前津耳さきつみを娶ったとあることから、阿流知命を阿加流比売、前津耳神社・前津彦神社と呼ばれていたこともあったようだ。

延喜式式内社で糸井郷に鎮座していた社は、更杵村大兵主神社と桐原神社、楯縫神社3社である。

このような解釈が、数少ない但馬の資料として桜井勉『校補但馬考』に記されているから史実だと思い込んだ但馬が新羅の王子天日槍ら半島渡来人が文化をもたらしたものだという誤解を多くの人々はもちろん、歴史学者においても与えていることを最後に付け加えておきたい。桜井勉は当時として調べたことを記しているが、彼は但馬を兵庫県に組み入れるように進言したり、天気予報創設など偉大な方ではあるが、歴史では専門家ではない。多くの思い込みや私見が入り込んでいるのだ。

但馬が記紀にある新羅の王子天日槍から、大陸や朝鮮半島とのつながりの中で文化的な影響を受けたのは事実であるが、天日槍だけをピンポイントに捕まえて但馬=朝鮮渡来人の文化=大和朝廷という狭い歴史感はもう止めなければならない。その半島南部にあった伽耶なども、同じ倭国人が築いていったクニであって、『但馬故事記』などによると、半島の国家も倭国であり天日槍は皇族の子孫である。新羅が建国されたのは356年で天日槍よりずっと以後である。

『但馬故事記』(第五巻・出石郡故事記)には天日槍についてこう記されている。

人皇6代孝安天皇53年、新羅王子天日槍帰化す。

天日槍は鵜草葺不合命の御子。稲飯命五世の孫なり。(中略)海路より紀の国に出でんとし、台風に逢い給う。稲飯命と豊御食沼命とは小舟に乗り、漂流し給い、稲飯命新羅に上り、国王となり、その国にとどまり給う。

つまり「天の」とある通り、天皇ゆかりの一族であるので、新羅王子=新羅人ではない。朝鮮半島南部を稲作や開拓したのは、九州北部と同じ倭人であって、その後新羅が半島を統一するに及び百済伽耶は滅亡した残る倭人もいれば、多くは引き上げざるを得なくなったのではないだろうかと思う。半島南部にある前方後円墳や土器類は、縄文弥生式土器で日本列島と同じものである。

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