但馬国ねっと風土記

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専門家ではない視点からとらわれない最新の歴史から今を知る

但馬西部の神社と歴史を調べ中

但馬たじまの大川である円山まるやま川流域にある朝来市養父市豊岡市に比べて、但馬の西部は、郷土に半世紀生きてきて、知らないことがまだまだ多い。円山川流域以外の地域は、それぞれの川と地形による個々のはじまりと文化がある。なかでも新温泉町と美方郡香美町村岡区小代区養父市の鉢伏高原もかつては七美郡)は、山陰と山陽を分ける中国山地の東端にあたる。

現在の新温泉町は、市町村合併で海岸部の浜坂町と山間部の温泉町が合併し新温泉町となった。それは、かつて縄文時代よりももっともっと何万年も前に、朝鮮半島やシナ大陸と比べてももっと古い時代から人は暮らしていたことが分かり始めている。もっと温暖だった。

やがて、日本列島にクニが誕生する過程で、二方国として、但馬国に加えられるまで独立した国だったエリアであり、のち但馬国二方郡となる。とくに冬は豪雪に見舞われる山間地域の旧温泉町と、旧浜坂町の海岸部は日本海リアス式海岸による漁村で、狭い平地を峠道が結ぶ。東隣の香美町村岡区とともに、雪に閉ざされ、冬は灘や全国に出稼ぎとして酒造りに従事する但馬杜氏のメッカで、年々高齢化や酒造業界の変化により減少しているが、その人数は全国四大杜氏といわれるほど多い。また神戸牛、松阪牛などの高級和牛の素牛、但馬牛の産地である。つまり但馬が誇る二大産業を中心的に担ってきたのが但馬西部の山間地なのである。

さて、クニが誕生し、しばらくの間、因幡・但馬とは別になぜ小さな二方国が存在したのだろうか。ここが知りたいから新温泉町に惹かれるのだ。

二方国(のち二方郡、今の新温泉町)は、但馬の他の旧7郡とは異なる成り立ちの歴史を持っている。全国を統一し地方行政区分にした律令国が誕生したのは、奈良時代大化の改新(645)または本格的には大宝律令(701)とされているが、日本の古代には、令制国が成立する前に、土着の豪族である国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階があった。

国司文書・但馬故事記』には、「人皇1代神武天皇5年8月(推定BC656) 若山咋命の子、穂須田大彦名を以て、布多県国造(のち二方と改める)と為す」とあり、奈良時代より1200年遡る弥生時代には二方国をはじめ但馬には国や県が成立していた。そして村に神社が祀られていたのである。ではなぜ、このエリアだけが因幡と但馬ではなく、小さいのに二方国として独立していたのか。それは、人々の往来を阻む幾つもの山々に囲まれていることがその要因であることは、誰もが頷けることである。

主要国道の国道9号線は、京都市堀川五条で国道1号線から分岐し、山口県下関市までを結ぶ旧山陰道であるが、兵庫県区間は70.1 kmと最も短いのに最大の交通の難所であったことは、明治に旧山陰道である山陰本線敷設で最後までこの区間が残っていたことでわかる。兵庫県養父市から鳥取県との県境の新温泉町までは、最長の蒲生トンネル・春来トンネル・但馬トンネルなどいくつもの長いトンネルで結ばれている。

国道を通過していると気づかないのが、神社(村社)を捜すと分るのである。国道から谷やかなり高地に入ると、地元に住んでいてもまったく未踏の高地にたくさんの集落があり、田が広がる世界が目に飛び込んでくることに驚くのである。そこはまたかつての旧山陰道であったものもある。車でもくねくねと細い山道で時間が掛かるのに、昔の人々はもちろん獣道のような山谷を歩いて、山林を切り開き、道を作り、田畑を開いて定住していったことに只々敬意を抱くのである。開拓者(パイオニア)といえばアメリカ大陸を想像するかも知れないが、我々のルーツである人々は、但馬の山間部を並々ならぬ苦労をして切り開き、新天地を夢見た偉大なる開拓者だったのだ。

よくそうした集落は平家の落人集落だといい、香美町余部の御崎や竹野町など、丹後半島にも平家の落人伝承が残る。中にはそういた歴史もあったかもしれないが、しかし、例えば但馬の高地や山間集落において、御崎でも平家の落人による以前から切り開かれていたことは、『国司文書・但馬故事記』の年代を見れば崇神天皇10年(推定BC91)に伊岐佐山(香美町香住区余部の伊岐佐神社)が記されており明らかだ。

新温泉町の神社の特徴

数年前に式内社兵主神社を主に巡ったが、二方郡は式内社が但馬の他の旧7郡と比較して極端に少ない。 気多21、朝来9、養父30、出石23、城崎21、美含12、七美10、二方5(祭神の座数による)『国司文書別記 但馬郷名記抄 解説 吾郷清彦式内社では最下位であるが、ところが式外社では52社、式内社との合計57社と、旧8郡の中で最も多く、神社総数では第三位に上っている。これは国府のある気多郡(今の豊岡市日高町)から遠隔であったためと思われる。吾郷氏は「かつて二方郡が但馬国府より僻遠の地に在り、朝廷に対しあまり功献を示さなかったという事由によるものであろうか。これに対し式外社が圧倒的に多い。したがって郡としては、それだけ神社分布の密度が高いわけである」としている。 お隣の旧七美郡は、式内社8、式外社11(合計19)、美含郡式内社10、式外社30(合計40)であり、つまり、新温泉町(二方郡)の合計57社は、但馬で最も神社の数が多い。神社信仰の深い土地柄だったといえるのである。それは二方国の祖が他の7郡が丹後(当時は但馬・丹後も丹波に含まれた)の天火明命にはじまるのに対し、出雲国の素盞鳴尊が開いたとあることからはじまることからも、出雲国国家連合というべき出雲系の最東端のクニであったのだ。

私が神社を巡る目的は、神社そのもの以外の目的があるからである。その神社の由来を調べることで、その地域の歴史を調べたいからである。神社の外見や建築、鳥居、狛犬、拝殿・本殿など今の様式が造られるようになったのは、そもそもそこにある神社のルーツから言えばだいぶ後のことで、今の神社建築は、せいぜい寺社建築が発達した鎌倉期以降の神社の姿なのである。それとして研究するとして、その神社は何のために建てられたのかは、まったく別の意義があり、本題なのだ。神体山や磐など自然神や祖神・国主・郡主などの古墳のそばに祀られた神どころなのであり、各集落の起こりが見えてくるランドマークが神社なのだ。長い但馬トンネル・春来トンネルや人が定住し村が生まれてそこに氏神が祀られる。100年、1000年で物事を見ては間違う。数千年から何万年前の縄文・弥生時代というと、原始的なイメージを持ってしまうが、クニや村が生まれ、神社の原型である神籬、神場は、すでに村に祀られていたのであり、約2600年もの間、何も変わらず現在も守られてきたことが、日本の歴史を語り継いでいるランドマークなのだ。

新温泉町の『国司文書・但馬故事記』記載の神社